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日本司法界の恩人・江藤新平

 皆さんは「維新の十傑」という言葉をご存じでしょうか。明治時代の「維新元勲十傑論」という本で挙げられた、明治維新で特に活躍が目覚ましかった10名のことです。

 今、明治維新というと、坂本龍馬や勝海舟、吉田松陰などが思い浮かびますが、「維新の十傑」にはこの方々は入っていません。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の「維新の三傑」、このビッグスリーは当然入っていますが、それ以外は、前原一誠とか広沢真臣など、現在ではあまりメジャーとは言えない人が入っています。人物の評価は時代と共に変わることがよく分かります。

 この中に佐賀藩出身の江藤新平がいます。初代司法卿(今でいう法務大臣)として数年の間に日本の法律の基礎を整備した日本司法界の大恩人ともいえるべき人で、法曹人としてはこの人が十傑に入っているのは納得できます。

 江藤新平は佐賀藩の下級武士の子に生まれ、猛勉強して学問を身に着けます。その後、時代の趨勢を確かめるため脱藩して京都に上り、木戸孝允などと知己を得た後、佐賀に戻ります。当時脱藩は死罪だったのですが、前藩主鍋島直正の計らいで蟄居処分となりました。直正は混迷する時勢にあって、江藤が後に活躍する逸材であることを見抜いていたのでしょう。そういえば大隈重信も佐賀藩を脱藩したものの捕縛されて佐賀で謹慎していたようです。直正がボンクラなお殿様であったら江藤新平も大隈重信も死刑になっていたはずで、司法制度も今とは違っていたし、早稲田大学(私の母校)もなかったでしょう。直正も偉い人です。

 その後、時代が大きく動いて倒幕・維新に流れていくと、江藤新平も罪を許され、中央に出て活躍します。江藤や大隈、副島種臣といった佐賀藩出身者は、維新に少し遅れて参加しており、いわば薩摩・長州が幕府という旧制度を破壊した後に新国家の骨格となる制度を作っていった人たちです。江藤は司法制度の確立に邁進し、それまで各藩がそれぞれの法を用いていたのを、全国で共通した法律を作り、日本を法治国家たらしめようと尽力しました。また、司法府を行政府の影響力の及ばない、独立した機関としようとしました。おそらくこのあたりが強力なリーダーシップをとって日本を急速に近代化しようとしていた大久保利通などとは相いれないところだったのではないでしょうか。

 その後、江藤は明治6年の征韓論に敗れて下野、翌7年には佐賀の乱の首謀者に祭り上げられて挙兵するも敗れ、処刑されました。享年41歳とのことで、これからもっと活躍する機会もあっただろうに、あまりに若い死が惜しまれます。大久保は江藤の裁判を見届けて、その日記に「江藤の醜態笑止」などと書き残しています。本当に嫌な奴です(笑)。

 江藤は頭が良すぎるせいか、周りの人間が馬鹿に見えたようで、「上から目線」の物言いが目立ち、コミュニケーション能力はあまり高くなかったようです、勝海舟には「あの人は何かピリピリして危ない感じがする」と言われ、渋沢栄一からも「頭はいいけど無礼で強引な人」と酷評されています。一方で、明治の高官になっても着るものに拘らず古着ばっかり着ていたとか、来るもの拒まずで若い書生を大勢自宅に預かっていたので家計はいつも火の車だった、自分を暗殺しようとした若者の心意気に感心して自ら除名嘆願をした、といういい話も残っています。頑固で人当たりはよくないけど情に厚く一本気、という典型的な「九州男児」ではなかったかと私は思っています。

 司馬遼太郎の「歳月」という江藤新平を題材とした小説があります。とても面白い小説なので、一読をお勧めします。

  江藤新平、大河ドラマの主人公にならないかなと思っている(大隈重信は主役ではないものの結構大河には出てきます)のですが、やはり、やや地味ですかね…。

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